愉快的陳家@倫敦

ロンドンで、ちょっと雑だが愉快な暮らし。

安部公房まつり

図書館にある本を手当たり次第読んで見るシリーズ、安部公房

思えば「純文学」って一番読まないジャンルであり、「純文学」とは一体何なんだろうと考えずに今までいたけれど、Wikipediaによれば「大衆小説に対して、大衆性より芸術性に重きを置いたもの」なんだそうだ。

娯楽性よりも芸術性。芸術性ってなんだ。

人間とは!人生とは!うわぁぁぁぁ!って感じの話とか、フォーマットをぐちゃぐちゃにしてみるとか、 内容はともかく文章の美しさに重点をおけば純文学になるのかしらん。

Wikipediaでは村上春樹吉本ばななも「純文学」のカテゴリーに入っていましたがな。いや、Wikipediaの情報を鵜呑みにするのもいかんのかもしれません。

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。考えつく限りの方法で脱出を試みる男。家を守るために、男を穴の中にひきとめておこうとする女。そして、穴の上から男の逃亡を妨害し、二人の生活を眺める村の人々。ドキュメンタルな手法、サスペンスあふれる展開のうちに、人間存在の極限の姿を追求した長編。20数ヶ国語に翻訳されている。読売文学賞受賞作。(Amazonより)

 「砂の女」は実家にあったか学校の図書館で借りたか、学生の時に読んだ記憶があったが、何故か蟻地獄の底に住んでいる蜘蛛女みたいな人にずるずる引きずり込まれる話だという変な記憶違いを起こしていた。

まあ多少そういう面もなきにしもあらずだけれど、全然違った。

変な話ではあるけれど、ブラック企業しかり、人生しかり、世の中しかり、おかしいと思いつつもいろんな感情や状況にかきまわされつつ、どんどん諦めの境地に入ってそれを受け入れてしまうという点では、概念的には結構あるある話かもしれない。

しかしー昭和の集落って怖いー。村のしきたり、村の掟系の話こわいー。こんなところ本当にあったらいやだー

燃えつきた地図 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)

 

失踪者を追跡しているうちに、次々と手がかりを失い、大都会の砂漠の中で次第に自分を見失ってゆく興信所員。都会人の孤独と不安。(Amazonより)

Amazonの説明文が簡潔すぎてアレであったが、まあだいたいそういう話だった。夫が失踪したと半年後に依頼してくる女とその弟、でもなんだか必死で探す感じもなく、話もぼんやりしている。それを興信所員が一生懸命探すのだけれど、暫くはなんだか普通のミステリー小説っぽい。が途中でだんだん展開が神経症的になってきて、ああ純文学って結局はこうなるのね、ちっ。

待ち人やうせ人を巡って残された人がてんやわんやの大騒ぎ、というのは小説のフォーマットとしてはかなり定型なんだろうか。でも結局はその消えた人よりも残されて右往左往している人達の心象が浮き彫りになっていき、行方不明になっている人の行方なぞ最後はどうでもよくなってくる。

全然関係ないが、当時は喫茶店でコーヒー一杯80円だったんだとか、立ち飲み屋にあるおつまみ自動販売機は本当にあったものなのか気になってしまった。

安部公房は今回3冊読んでみて、「箱男」を最初に読んだものだからうわーこれは苦手な感じかもしらん・・と思ったが、意外と3冊ともそれぞれ感じが違って、最後はそれほどあかんようには思わなくなった。実際この「燃えつきた地図」が一番流れが普通で分かりやすく見せかけておいて、最後はえ〜、そうくるの・・と一番納得いかなかったかもしれない。

「純文学」さんということで、どうしても精神的・神経的な感じに話は進んでいくが、実際はどの話も、ニュースや実際に起こった話にヒントやきっかけを得て書かれているそうで、そいうところは全く非現実的なところから端を発した話ではないんだな、という所は面白かった。

どの作品についても、作家本人が色々とこの話が何を表しているのか語っているが、人間とは・・人生とは・・・ということについて、どうも社会科学的政治的面で考えることに興味はあっても、心理学的哲学的に考えることに慣れていないせいか、うーんよくわからん、ここまで考え詰めていたらしんどいやろうなあ、と思ってしまう。もう少し齢をとったらわかるかもしれません、こればかりは。

ちょっと笑ってしまったのは、どの小説でも登場人物が性的なフィジカルコンタクトを始めようという時に必ず最初に相手を「くすぐる」。これは作者のお決まりの手だったんでしょうか。ははは。