愉快的陳家@倫敦

ロンドンで、ちょっと雑だが愉快な暮らし。

乙女が密告する話

アメリカの図書館の日本語本を読むシリーズ。普段あまり小説を読みつけないので、直木賞芥川賞の違いもよく分かっていないが、「感動の芥川賞受賞作(2010年)」を読んでみた。もしかしたら、芥川賞作品を読んだのはこれが初めてかもしれない。あ、花火は読んだか。

乙女の密告

乙女の密告

ある外国語大学で流れた教授と女学生にまつわる黒い噂。乙女達が騒然とするなか、みか子はスピーチコンテストの課題『アンネの日記』のドイツ語のテキストの暗記に懸命になる。そこには、少女時代に読んだときは気づかなかったアンネの心の叫びが記されていた。やがて噂の真相も明らかとなり……。悲劇の少女アンネ・フランクと現代女性の奇跡の邂逅を描く、感動の芥川賞受賞作。(Amazonより) 

関西の外大のドイツ語学科が舞台。そこに登場する女子大生達は、はっきりした意味はよくわからないけれど「乙女」であり、みんなで必死に「アンネの日記」を暗記している。そしてエキセントリックなドイツ人の教授は、まるでのだめのミルヒー風。設定が全て少女漫画っぽい。

思春期の女の子の中で「アンネの日記」の立ち位置って一種独特な感じがする。これって日本だけなんだろうか。私も小学生の時初めて読んで色々衝撃だったし、設定や状況や内容やその悲劇的な最後など、多感すぎてどうしようもない青少年がひっそりこっそりはまってしまうような要素がありすぎる。

アンネの日記」を読んで日記を書き始めた人もいるかもしれない(ハイ私です)。

何でも昔は生理の日のことを「アンネの日」と呼んでいたそうだ。これは昭和30年代に売り出された初めての生理用品の名前がアンネ・フランクにちなんで「アンネナプキン」だったからだそうだ。

私が子供の時に「アンネの日なの」なんて言う人は既にいなかったけど、そんな昔から生理用品という「女の子の秘密」的アイテムにアンネという名前がつけられたところからして、もう随分ながいこと、アンネという名前に何か思春期のシンボルとして昇華された何かがくっついてきちゃっているんだなあという感じがする。

これって日本だけなのかなあ。

私も小学生の時には一生懸命読んでいたが、自分の年齢がアンネ・フランクを超えてからその興味は急速にしぼんでいった。学生時代オランダに行った時に隠れ家も見に行ったが、自分でも驚くほどパーソナルな感慨は覚えず、歴史的事実として受け止めるばかりで、淡々と家の中を見て回り、展示物を見て帰ってきた。あの覚めた感覚はなんだったんだろう。

数年前に実家にあった「アンネの日記」をもう一度読んでみたら、今度は親の視点で読んでいたようで、戦争中で迫害されたユダヤ人で隠れ家暮らしという特殊な環境にあることをのぞけば、その大部分が中学生の女の子が親(特に母親)に対してキーキー言ったり、世の中や人生について、現実と想像をロマンチックに膨らませて、あの年齢独特の雄弁さで語りまくっている(これを厨二病っていうの?)普通の女の子の日記だということに気がついて、苦笑してしまった。

自分の娘はまだ6歳だけれど、こっちにとってはちっちゃなことでも、本人にとってはオオゴトで、悲劇のヒロインのようにワーワー泣いたりすることがある。それでつい、子供だなあ、可愛いなあと笑ってしまうのだが、アンネの日記の中でも、かなり似たようなシチュエーションで母親に笑われプライドを傷つけられたアンネが、烈火の如く怒りまくり、ものすごい勢いで母親をディスりまくったりしている。

というわけで、娘を持つ親となった現在の自分にとって「アンネの日記」は、自分も思春期の時そうだったからわかる、わかるけど、今の年齢では100%共感できない、ちょっと生意気な子供の日記、に変わっていて、ちょっとビックリした。

自分の中でアンネの日記の立ち位置が変わっていったからか、「乙女の密告」はもう20歳も過ぎているであろう女子大生が、今だにアンネの日記を読んで心の旅をしちゃってるのか〜、というところが自分の中では一番引っかかったかも。

とはいっても作品紹介にあるように、彼女達も少女時代に読んだ時とは違う面に気づいた、という話にはなっているんだけれど。

ただ変わった設定の大学(こういうのを学園モノというんだろうか)の中で起こる、些細(?)な出来事の渦中にいる自分と、アンネの日記の内容をダブらせちゃうのはあまりにも少女漫画的じゃないかな〜とも思ったが、小説や文章って、読み手の年齢や環境や経験に合わせて、受け止められ方も変わっていくから、「アンネの日記」も読み手の腕次第でどうにでもとられていく、そんな話だったかもしれない。

私もあと何年かたって、今流動的で不安要素が多い世の中と当時のことを重ね合わせて「アンネの日記」を読めば、また違った感想を持つことでしょう。

しかしもしかして「純文学」は「純情文学」でもあるのかいな。