愉快的陳家@倫敦

ロンドンで、ちょっと雑だが愉快な暮らし。

2022日本里帰り日記⑲:満州からの手紙

実家で、戦争中祖父が戦地から送ってきたハガキ類をどっちゃり見る機会があった。

大連で子供時代を過ごしたこともある祖父は、召集されて満州に行った。その後ソ連軍に拿捕され、シベリアに抑留された後、戦後数年してようやく舞鶴経由で帰ってきた話は今までも聞いたことはあったが、当然祖父自らそういう話をするのは聞いたことがなかったし、細かいことは全く知らなかった。

手紙の量があまりに多かったので、とても全部は読み切れず、一部を携帯で写真に撮って後でゆっくり読んだ。まずは達筆すぎて最初は解読できない部分もあった。探偵ナイトスクープにもそういう依頼があったよな。でも慣れとは面白くて、段々読み進めていくうちに筆跡のクセなどがわかり、くずし字も大分読めるようになったのは面白かった。

祖父母のことは当然歳をとってからの2人しか知らない訳だが、若いころの2人のやりとり(残ってるのは祖父からのものだけだが)など、もう何年も前に亡くなった2人ではあるが、自分の家族の過去の側面を知るのは少し居心地の悪いような、不思議な感覚だった。

手紙を読んでいて、面白いと思ったことなどを箇条書き。

  • 満州の陸軍なので所属は当然関東軍。祖父は二度召集されたようで、部隊は2度変わっている。関東軍の部隊というと、どうしても731部隊のことばかりググっても出てくるのだが、他にも各地に沢山の部隊があったわけで、個別の部隊の情報はネットではなかなか見つけられない。国会図書館とか行けばわかるんだろうか。差出人住所には、数字の部隊名の下に、「山田隊」など、隊長の苗字がついた中隊か小隊名が書かれている。所属する隊の隊長名は結構よく変わっていた。
  • ハガキはもちろん軍事郵便で、全て検閲印がある。検閲は2回されたようで、2人の印がある。祖父母のやり取りを読み込んでいると、色んな思いが溢れたが、色々な家族のやり取りのハガキを読む係の人はどんな気持ちで読んでいたのだろう。普通の検閲印の時のものと、将校検閲印、というのもあった。この丘本さんという苗字などこの漢字は珍しいのではないだろうか。


  • 関東軍というと色々どぎまぎしてしまうが、祖父は兵站系だったようでどちらかというと後方支援、戦闘はしなかったようだ。同じ大隊にいて、やはりシベリア抑留を経験した人の話をひとつだけ見つけたが、ソ連軍が来た時も、彼らは奉天などもっと先を目指していたので、祖父達の部隊にはほとんど目もくれなかった模様。この体験談では自ら投降したことが語られていた。
  • 曾祖母にも頻繁に手紙を送っており、既に高齢だった自分の母親を気遣う言葉が並ぶ。趣味だったスポーツに使う用具を送ってほしいと何度も頼んでいた。部隊内でちょっとした大会をしようとしたりしていたようだ。しかし配給もなかなかままならないような状況になると、スポーツ用品の調達などなかなか難しかった模様。曾祖母への手紙には、昔の思い出話などもぽろっと書き綴ることがあったので、ゆかりのある地名や人の名前、出来事など、今まで知らなかった情報が少しでも記されているのもまた興味深かった。
  • 手紙や小包はしょっちゅう送られてきたようで、1週間に今日は何曜日と何曜日と何曜日に手紙が届いた、とか、かなり頻繁。毎日でもいいから手紙を書いて欲しい、とやはり本国からの便りをどれだけ楽しみに心待ちにしていたのかわかる。小包で色々と物資も受け取っていたようで、万年筆、雑誌、時には松茸なども。家族だけではなく、隣組の人達や、職場の人達からの小包や慰問袋も届いていたようだ。


  • 戦地には赴かなかった祖父の同僚が、祖母や曾祖母を色々世話してくれていたようで、防空壕を掘ったりしてもらっている。会社に連絡するように、と頻繁に言づけていたり、日々の事務的な伝言も結構ある。出征中の給料支払いなどについても書かれていた。やはり戻ってからも自分の席が残っているか心配だったのかもしれない。本当に色々な人にお世話になっていたことがわかる。また色々な人からのお礼状や、元気かどうかを尋ねるハガキなども残っていた。非常時、お互いに気に掛け合い、助け合って生活していたのがわかる。
  • 戦地でも、仕事関係か何かの先輩でかなり軍の地位が高めの人が隣の部隊に配属になり、そういう人に目をかけてもらっていたようで、先輩からも、この間祖父君に会いました、元気でやっておりますのでご安心を、といった手紙が送られてきていたり、祖父からは、この先輩にタバコを送るように家族に指示していたり。部隊内で薬品会社の人と知り合いになり、ここに連絡すれば必要な薬を手配してくれるから頼みなさい、などのメッセージもあり、本当に持ちつ持たれつやっていたようだ。
  • 軍服を着て格好良くポーズをした写真もいくつか。松竹で映画監督をしていた人が仲間にいたようで、部隊内での演芸大会で芝居をやって優勝したので鼻高々、と仲間と扮装した写真などもある。軍に入って体重が52キロまで増えました、とあり、以前はどれだけガリガリだったんだと驚く。
  • 現地の人のことはあまり言及されていないが、写真館に行ったがカメラマンが満人で下手だったので、写真写りが良くないとか、そういう感じの見下した内容はあった。時代とはいえ。地元の風習についての言及はあった。どちらかというと蛮人の風習を民俗学的に観察しているような書き方でもあった。
  • あだ名は千松君。相変わらずの千松ぶりです、などと書かれているので調べてみたらこれは浄瑠璃・歌舞伎の登場人物から来ているようで、いつも腹を空かせている人物らしい。当時はそういう芸能が一般の娯楽としてあり、一般教養としてこういう言葉が普通に使われていたんだな、と今と昔の「普通」の違いを感じさせられるなど。
  • 満州の寒さ、そんな中春になると咲く花に癒されていた模様でスケッチなどもある。ハガキには消印も日付もないので、時系列がわからず、こういうやり取りがシベリアに抑留されるどれくらい前まで続けられていたのか判然としないのが残念。
  • 結婚前に祖父が祖母に送った手紙(まだ出征前)の丁寧なこと。立派な筆書き。海に行きませんかと誘っているが、前回行ったときあまりの混雑に閉口したらしく、早く行って早く帰りましょう、朝7時集合でいかがです、とある。デートには早朝すぎやしないかーい
  • 結婚後のハガキはもう少し口調がぞんざいになるのも面白い。奥様教育と称して、満州の文化や風物詩などを書き送ったりもしているのは微笑ましい。祖父が出征中働きに出た祖母であるが、祖父はそれは面白くなかったらしい。働くと称して街をフラフラすることは許さんぞ、的なことも書かれている(苦笑)
  • 祖父の妹宛てに書いた手紙などはもう少し砕けていて、ハイチャハイチャなどと、江戸川乱歩の文章で読んだことのある当時の表現が実際に使われていたりして面白い。
  • この他にも、自分の家族という視点、そして当時の状況や歴史を知るという点で興味深い内容は沢山あったがここには書き切れなそう。しかしあああ、と思った手紙が3通あった。一通は、ソ連赤十字を通じて送られてきたハガキ。これはロシア語と日本語で氏名や住所などを書く欄があり、捕虜用無料ハガキとあり、シベリア抑留時のもの。自分が無事だということを初めて知らせるメッセージが書かれていた。元気でやっております、とあるが、シベリアに抑留されて元気ハツラツにやっている訳はなかっただろう。


  • 抑留者郵便または俘虜葉書、について記載されたウェブサイトを見つけた。ソ連に抑留された各国の捕虜が出したハガキの画像が掲載されているのだけれど、このページに掲載されている上から7枚目の画像が、祖父が祖母に送ったのと同じタイプのハガキ。そして、宛先や差出人の筆跡が、祖母が受け取ったものと同じである。このハガキの裏に、全てカタカナで突然連絡するが無事である旨、サラっと書かれているのだけれど、恐らく同一人物が祖父をはじめ捕虜に変わって代筆したものと考えられる。誰だったんだろう。なぜ本人に直接書かせなかったのか。祖父のハガキもウラジオストクの郵便局着付となっていた。


(これは我が家に残っているぶんの筆跡)

  • 二通目は、収容所で一緒だった人づてに、祖父の消息を伝えるハガキ。収容所で懇意にしていた人が一足先に帰国、帰国したら曾祖母と祖母に自分の無事を伝えたほしいと依頼したものの、その人も帰国に半年もかかってしまい、自分の住まいも全く別の土地だったため、祖母宅に寄ることができなかったと。その旨、帰国した人の奥さんが、祖父の勤め先に連絡してきたらしい。6月に収容所を出て、帰国できたのが翌年の1月、そして祖父の無事がようやく伝えられたのが2月。8か月前の無事が、電報や電話やハガキなどを通じ、4-5人を経由して伝言ゲームのように伝えられてきた訳だ。当時はこんな風に、ちょっとした目撃情報や何か月も前の情報でも、少しでも誰かが知らないかと皆が必死に伝えあい、探していたんだろうなと思うとグッとくる内容だった。
  • 3通目は命からがら舞鶴に引揚船で戻ってきた祖父の、帰国したという鉛筆での走り書きの手紙。ここにも手短ではあるが万感たる思いが書かれている。この帰郷もドラマになりそうなエピソードがあるのは知っていたので、それと照らし合わせてもグッとくる。しかしまさか孫がデートの誘いから、引揚げのメッセージまで、70年以上たってから目にするなんて思っても見なかっただろう。

追記:紹介したウェブサイトのハガキの写真を両親にも見せたが、やはり同じ筆跡だねと。しかしこの字、祖父の字にも似ているのでまさか代筆とは思っていなかったよう。他の人から送られてきた手紙と比べても祖父の字はキレイなので、もしかしたら代筆係は祖父だった?だとしたらすごいが、手紙の束の中に、そこまでカタカナが多用されたサンプルが無いため確認できない。あとこのウェブサイトの情報によると、差出人の住所の横に書いてある数字は収容地区を指すのだという。ただウェブサイトに掲載されている人の収容地区と祖父の収容地区が随分離れているので、どういう経緯で、どの場所でこのハガキが実際に書かれたのか、本当に同一人物による代筆なのか、カタカナの書き方は似通いがちなのか、実際のところ良く判らない。インクの感じはとても似ている。さて、調べる術はあるのか?!