愉快的陳家@倫敦

ロンドンで、ちょっと雑だが愉快な暮らし。

 先祖をめぐる旅、その3

1940年のUSセンサス(国勢調査)の情報が一般公開されたというので、アメリカに先祖のいない我が家、昔住んでいた築80年のアパートには、どんな人達が住んでいたのか調べてみることにしました。


多分色んなアクセス方法があると思うのですが、家系図作成のための情報を色々検索閲覧できるサイト、Ancestory.com(前述のテレビ番組Who do you think you areのスポンサーでもあり番組内でも活用されまくっている。笑)で検索してみました。自分の住む通りと、クロス・ストリートを選ぶと、その地域のデータがどん、と出てきます。


データというか、当時は手書きで記入されていたセンサスの情報をスキャンしたものが出てきます。こんな感じ。多分国勢調査員みたいな人が一戸一戸回って話を聞いてたんでしょうね(今は郵送されてきて、マークシート方式のを送り返すだけですが)。調査員によっては字が読みにくーい。



さてここに書いてある情報ですが、氏名、年齢、結婚しているか、持ち家か賃貸か、家賃、教育レベル、出身地、職業や給料、週どれだけ働いているかといった情報がコード化されて載っています。見にくいですが説明欄にちゃんと書いてあるので大丈夫。では早速私達の昔の住所の住人を見てみます・・・。


 


私がいた時は12部屋あったアパートですが、ここではなぜか8部屋になっています。内装が違ったのかな。家賃は部屋によって微妙に違いますが、40から45ドル。インフレ率を計算できるサイトがあったのでこれで調べてみると、今のお金では655ドルから737ドルといったところです。さて、これは安いのか高いのか?私達が住んでいた時は、ワンベッドルームが1200ドルでした。でもこれ、古いアパートに適用されるレントコントロール(家賃をそんなに上げてはいけない)というルールがあったのでこれだけ安かったですが、周囲の同じようなアパートは1600ドルぐらいはしていました。最近はさらに家賃の高騰が続いていて、私達が出ていった後大家さんは部屋を改装して1600ドルにすると言っていたし、今あのエリアで古いワンベッドルームを借りようとすると2000ドル以上はします(ランドリーなし、エレベーターなんてもってのほかでこの値段!)。これは最近の住宅事情の問題ですが・・・。


私達が住んでいた頃は、ルームシェアしている若い女の子、離婚して一人暮らしのおっさん、ゲイのカップル、40代子なし夫婦、当時は30代前半だった私達夫婦などが住人でしたが、当時の住人構成はこんな感じ・・・・。

  • ニュージャージー出身のオールドミス、79歳でひとりぐらし。私達が住んでいた時にも、ひとりで住んでいる高齢のおじいちゃんがいたなあ・・。エレベーターが無いので、階段の昇り降りが大変になって、近所のアパートの1階に引っ越して行きました。しばらくしたら亡くなったというニュースがあり、アパートのロビーにおじいちゃんの写真がしばらく飾られていました。この人も、階段大変だったんじゃないかな。年金収入があったかは不明ですが収入欄はゼロ。なのに住人の中では家賃は一番高い、45ドルでした。
  • アイルランド出身のお母さん40歳と、イギリス生まれの20歳の息子。お母さんはこの年に失業して、現在求職中。息子は、シアター(映画館か、劇場か)でアッシャーをやっている(チケットもいだり、案内したりする人)。このあたりには小規模な劇場だった建物がたくさんあり、今は薬局やスポーツジムなどに改装されて使われています。このどこかで働いていたのかも。息子は勤務時間が短い割にお給料は年収で1000ドル。この親子の他に、保険会社で秘書をやっている30代後半の独身女性が同居人(Lodger)として登録されています。このLodgerというのは、おそらく部屋を貸すだけでなく、食事なども出していたのではと思われます。特に女性が筆頭主の家庭などで、収入の足しにするためにこういう同居人を入れることが多かったようです。
  • ミネソタ出身の40代のカップルと、17歳の娘。奥さんは大学を出ているようですが、主婦。旦那さんは中卒で、新聞社勤務、新聞の印刷機械のオペレーターだそうで、ここらへんの近所の中でも収入は一番多く、年間2100ドル。
  • 63歳の母と、27歳の娘。母親は看護婦で年収1200ドル。娘はバツイチで、リテールストアで電話の交換手。これもまた時代を感じさせる職業ですなあ。といいつつ、私もシリコンバレーというある意味時代を反映したところで働いているので、将来自分の子孫にへえぇ、とか言われてそうです。電話交換台が必要なくらい大きなリテールストアというと、やはりユニオンスクエアにあるデパートとかだったのでしょうか。年収は970ドル。
  • 47歳バツイチ女性、ドレスメーカー。年収は1518ドル。38歳の未亡人で、ヘアサロンのオーナーである女性と同居しています。この人の給与欄はゼロになっていて、キャッシュ以外での形で収入を得ている、となっています。どうも他の人の情報を見ても、自営業の人のところはみんなこんな感じになっていました。当時は税金なんかも今より適当だったりしたんだろうか。なんとなく気になって、この女性の名前を検索したら、当時のビジネスディレクトリーが出てきて、数ブロック離れたところに彼女のお店があったことがわかりました。
  • 60歳と57歳の夫婦。旦那さんの職業は国勢調査局のエリアマネージャーとなっています。まさにこの調査に関わったうちの一人というわけです。去年の実務労働時間は16週間で年収はたった500ドルとなっています。4ヶ月ぐらいしか働いてない?この調査では、去年1年で何週間働いたかという情報の他に、この調査を行った1940年3月のある1週間の間、何時間働いたかも記入する欄があるのですが、そこは去年と打って変わって、なんと84時間働いたとあります。それって1日も休み無しで12時間労働?!?!センサスは毎年やるものではないので、今年になって急に忙しくなった、ってことなのでしょうか。このセンサス情報を集める仕事、短期バイトじゃないですけれど、契約社員のような形での勤務形態になるようで、なんとうちの旦那もやったことがあるそうです。仕事がある間は安定しているし、実入りがいいようです。このおじさんもそうだったのかな。奥さんはPrivate Estateのセクレタリーで年収1260ドル。どこかお金持ちのお屋敷とかで働いてたんでしょうか。
  • 女性のひとりぐらし。58歳、ドレスメーカー、年収不明、おそらく自営業。でも自営業は大変みたいで、やはり1日12時間労働。
  • 30代の夫婦。旦那は証券会社社員で年収1200ドル。奥さんはレストランのウェイトレスで年収は970ドル。29歳の男性同居人がいて、職業が旦那さんと一緒なのでおそらく会社の後輩じゃないでしょうか。LodgerではなくRoomerと書いてあるので、本当に部屋だけ間借りしてるのかもしれません。彼の収入はウェイトレスの奥さんより少なくて700ドル。


以上のような人達が私達の住んでいたアパートの住人でした。ここからわかることは、普通の家族が少ないこと。まあこれは私達の時代も、夫婦で住んでいたのは私達を含めて2世帯だけでしたが・・・。あとは職業と給与の関係がイマイチよくわかんなかった。女性の筆頭主が多いこと。そして同居人を入れている人が多いんですが、うちのアパート、全部ワンベッドルームだったし、同居人とうまくスペースを区切って住めるような間取りじゃなかったんですよね・・・どうやって共存してたんだろう。思えば、ものすごく大きなドアがあって、中に小さいベッドだったら入るんじゃないかな、というような巨大クロゼットがあったので、もしかしたらそこに実際寝ていたのかもしれません。それとも今は12部屋あるのに当時は8世帯しか登録がないので間取りが違っていたのでしょうか。でもどちらにしてもぎゅうぎゅうな感じだったのには間違いありません。



 


我が家の隣のアパートも古くて、私達がいた頃は若者ばかりが住んでいたので、毎晩いろんな騒音がしてイヤだったのですが、そちらのほうも見てみたら、やはりほとんどが女性が筆頭主の世帯で驚きました。年配の女性の一人暮らしや、離婚経験者も多数、そして多くの人がルームメイト的な人達と同居しています。仕事も色々なのですが、中には政府の職業援助プログラムでお針子をしている、という記載の人もいました。当時のアメリカ、恐慌の影響からようやく回復傾向、でもまだ戦争に突入しておらず、まだ経済的にも庶民は苦戦していた時期だったのではないでしょうか。


さてこの地域、坂の上はお金持ち、坂の下は庶民が住んでいるエリアなのですが、今でも数ブロック坂を登れば高級アパートやお屋敷が立ち並んでおります。案の定、当時も数ブロック上に行けば、弁護士や不動産関係者など、年収5000ドル以上のお金持ちばかり!でもやはり狭いサンフランシスコの住宅事情といいますか、皆さん持ち家はなく賃貸。家賃は90〜120ドルも払ってます。


そして私達が住んでいたブロック、周囲の数ブロックもあわせてみても、白人率が非常に高い。時々イタリアからの移民などもいますが、面白いことに北欧からの移民も多い。そういえば近くに北欧系の教会があるけどそのせいか!と膝を打ってみたり。そんな中、今は若者でうるさい隣のアパートの当時の住人に、唯一のアジア人家庭がありました、しかも日系です。お父さんは40代で日本の出身、奥さんはカリフォルニア生まれ28歳の日系人で、小さな女の子がいます。お父さんはこのアパートの管理人をしています。若い奥さんをもらっていいねぇ、ヒューヒュー、と思いがちですが、このお父さんの名前を調べたら1930年の国勢調査ではサクラメント在住とあることから、おそらく日本から移民してきて、農場などで働くなどして苦労したのではないかな・・経済的にも結婚は若いうちは無理だったのではないかな、などと想像します。国籍欄がお父さんだけまだ外国人となっていますが、当時はまだ差別も色々あった時代ですから、アメリカ国籍を得るのも難しかったのではないかと思います。


そうすると戦争が始まってからなおさら大変だったのでは・・とふと思い、さらに名前を調べてみたら、アメリカ軍が持っている日系人強制収容所移住者名簿の中に、この一家の名前が出てきました。orz その後どうなったのかはわかりませんが、奥さんらしき人はつい最近までこの近所でご健在だったようで、数年前の地元の新聞に死亡広告記事が出ていました。


そうなるとさらに気になったのは当時のチャイナタウンの様子。今でもごっちゃごちゃと移民が言葉もわからずに住んでいる場所、うまく調査できたのだろうか・・と見てみるとやっぱりすごい、まず1世帯の人数がめちゃめちゃ多い!子供5人とか普通にいたりします。そして出身地が見事にチャイナ、チャイナ、チャイナ・・・・。全然関係なさそうな男の人達ばかりが同居していたり、職業もレストラン、ポーター、鶏の卸売り、占い師なんていうのもあります。そして中国人ばかりが住む建物の中に、また日系人の家族を発見。日本出身のお父さんがレストランを経営している一家、20歳の長男はそこでシェフとして働いていて、下にはまだ10歳にもならない小さな弟や妹がいます。年上の兄弟は日本風な名前なのに、年下の兄弟は英語の名前になっていたりするのが興味深い。日本料理屋をやっていたんでしょうか?当時の日本食ってどんなものを出していたんだろう・・でもやはりこの一家も、戦争中は全ての資産を取り上げられてしまったのではないかと思ってみたところ、案の定収容所の名簿に名前が載っていました。ここらへんの日系人、一網打尽に連れていかれたんだな・・・、自分がそんな状況に置かれたらどうだろう。家族の中でアメリカ人じゃないの私だけだし。うううむ。。。。


この一番上のお兄ちゃんが当時20歳だったというので、なんとなく気になってさらに調べてみたところ、やはり・・・。数年後、アメリカ軍の日系部隊に名前が載っていました。家族が収容所にいながらも、志願して日系人部隊に入った若者達の話は有名で、それこそフランスの前線などで戦ったりしたそうですが、このお兄ちゃんはなんと諜報部隊に配属されていました。日本語がわかる日系人が日本軍の情報収集や分析や、あるときは情報操作をしていたのは永い間秘密だったみたいです。数年前まではレストランのキッチンで働いていたのに、家族は収容所に連行され・・・、軍隊に入るのは大きな決断だったに違いありません。下に兄弟がいたことも考えると、家族を守りたい、という思いがあったのかもしれないな、などとこれまた想像してしまいました。


この「お兄ちゃん」の死亡広告記事も見つけました。数年前にシカゴで亡くなったそうです。サンフランシスコのチャイナタウンの家にはもう戻ることはなかったのかな・・。そこに列記されている兄弟の名前がセンサスの情報と一致したのでご本人とわかりました。彼の戦争時の話などは全く紹介されず、良い夫、良い兄、良い父だった、ということのみ記されていました。


って、ものすごい調べこんだみたいですが、ちょっとそういうサイトに名前を入れたりするとこういう情報がばーっと出てくるので、本当に上に書いた全ての情報を見ていたのはものの30分ぐらいだったと思います。ちょっとした情報で色んなことが見えてくる面白さ、とはいえ他人の情報なのでこんなに見れていいのかな・・・と思いつつも、そこから見えてくるパーソナルストーリーや歴史に思いを巡らせたり、そしてこんなことが一瞬でわかるネットの力というか、こういう情報を電子化して公開しようという努力もすごいな、と思った次第です。


 

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