愉快的陳家@倫敦

ロンドンで、ちょっと雑だが愉快な暮らし。

イタリアあれこれ覚え書き


  • おしゃれして歩きたいならやっぱりパリよりミラノなのかも。素敵なカットの素敵な生地の素敵な色目の素敵な服を着た人が老若男女たくさんいた(ベイエリアやロンドンはもう言うもがな)
  • イタリア人のおじさん頭ツルツル黒縁メガネ率とても高いスタンリー・トゥッチのいろんなバリエーションがいる


  • サンフランシスコでも走っているミラノの路面電車、こっちが本家です


  • ミラノのお洒落なショッピングモール、13年前に来た時と違うのは、インスタグラマーがいっぱいポーズしてるところ!Bling Empire に出てきそうな顔いじり済年配アジア人女性が全身グッチづくめみたいな格好して、カメラマン従えてポーズとってた



  • イタリアのキッチンでみたもの、back splashとシンクの境目のところにこういう三角のを置けばカビはえない!あとなぜか洗ったお皿はシンクの上の棚、下が水切りになってた
  • 今回宿をチェックアウトしてから空港に向かうまで時間が随分あったけれど、荷物のAirBみたいなアプリを使って、近場のバーに荷物を安く預かってもらった。荷物2個で予約したけど3個目もいいよいいよ、っておまけで預かってくれた。サービス色々あるけど今回使ったのはBounce lugaggeってところ
  • 旅先でその国の言葉のシャワーを浴びていると耳に残る音が出てくる、今回はなぜかpraticamenteが良く聞こえてきた。後はやはりpoi, alloraといったFill wordやquestoなど指示代名詞が耳に残った(後で調べたw。あとなぜか数字の55(ちんくわんたちんくぇ)
  • ミラノで通りがかった寿司屋さん、店名の下にsushi e uramakeria って書いてあった、巻き物は裏巻きオンリーってことなのかな?!


  • 大陸ヨーロッパのアパート、たいてい電動の雨戸がついているのとても良い。雨と寒さと湿気が酷いイギリスでもやればいいのに。
  • ミラノの空港はアメリカとイスラエルへの出国ゲートだけ別になってた、それだけセキュリティがってことなんだろうなぁ
  • 空港に好物はプロテインだろうなと思われるキン消しみたいな体型のお兄さんがいて、セキュリティのところで止められてカバン開けられてた。クーラーバッグみたいな袋の中から真空パックのささみみたいな肉が大量に出てきてた。リーンプロテイン!!ってかそんなの現地で買えばいいのになぜ!

ミラノ3:ミラノの美味しいもの

昔の味再訪

ミラノに行ったら行きたい店があった。13年前に初めてミラノ風リゾットと、カツレツを食べた店。

marichan.hatenablog.com

実は店名を覚えていなかったが、当時撮った写真と、「ミラノ カツレツ レストラン」みたいな検索で名探偵はすぐに店を突き止めた

www.tripadvisor.jp

創業1933年とのことで、13年たった位では内装も何も変わっていなかった。以前からあった漢字で「化粧室」と書かれた張り紙もそのままあった。当時は知る由もなかったが、ネットで見てもやはり日本人観光客にもよく知られたスポットだった模様。

もしかしたら今は、他にももっと洗練された新しいロンバルディア料理が食べられる美味しいお店もあるだろうけれど、あの時初めて食べた時の記憶をたどりたかったのと、そこに今回は子供を連れて行く、という回顧イベントとして行ってきた。

店はミラノのドゥオーモに近い、小路にある。こんな所に行ったんだという外観の記憶が全くない。

ウェイターのおっちゃんがこの店は1933年からあって古いんですよと教えてくれたので、ええ実は13年前子供が生まれる前に一度来たんですよというとおおそれはそれはウェルカムバックと。昔同様、ミラノ風リゾットとカツレツ、そしてサラダ、子供はスパゲッティボロネーゼを注文した。

まず何に感動したって、サラダと一緒に出てきたオリーブオイルとバルサミコ酢の瓶。液だれしないんですよ。やはりいいもの使ってるんだなーとそんなところに感心。

ラーメン屋かと思うほど注文した料理はあっという間にやって来た。お客さんもどんどん入ってくるが、さすが老舗だけあって手際がとても良い。



ああ、このカツレツ!13年前と、プレゼンテーションの仕方も全く一緒です。パパと半分こ。



この黄金のミラノ風リゾットも美味しかった。これもパパとシェア。



そして忘れてはいけない。13年前、この店から始まった、シェアする時には38度線を引くという伝統。この線から先は、不可侵なのである。昔食べたものの味、美化されているのではと心配したが、カツレツもリゾットも美味しくてペロッと食べてしまい大変満足して店をでた。キッチンの方からは、肉を薄くたたくバンバンいう音が聞こえていた。

カフェやバールや食べなかったスイーツや


ミラノの滞在は本当に駆け足だったので、ゆっくりはできなかったが、美味しそうなケーキ屋さんが沢山できていた(前もあったのかな)昔は絶対無かった寿司屋も沢山あった。



朝、最後の晩餐を見に行く途中で寄ったお店で子供が頼んだホットチョコレートは、スペインやポルトガルで飲んだのと同じ、コーンスターチが入っていてもったりしたタイプですごく美味しかった(と子供が頼んだものを横取りした感想)。



雨が降りそうで少し薄暗かったミラノの朝、明るい店の中から見る街路樹の風景。逆にこの天気の悪さが居心地よい。



ドゥオーモ近くでは、マロングラッセの使い方が半端なさすぎるケーキが沢山あった






ドゥオーモ近くにあるジェラート屋さん、ここは健康や環境を考えたようなユニークなフレーバーが色々あって面白かった。ひよこ豆をローストしたもの、というフレーバーがあったので試食してみたら、これはそのまんまきな粉と同じ味じゃないですか!なのでちょっと和風に抹茶と合わせて見た。この他にも、黒ニンニクのフレーバー、飲み物も大麦のコーヒーなどあり。おススメ。

www.ciaccolab.it
www.tripadvisor.jp

【本棚総ざらい2】マンボウ家族航海記

北杜夫の小説はひとつも読んだことは無いが、どくとるマンボウのエッセイは小中学生のころ地元の図書館で借りて読んでいた。どくとるマンボウの功績は、やはりなにより「躁うつ」という病気について世の中に広く知らしめたことだろう。

どくとるマンボウのおかげで子供心に、躁とうつが切り替わると人は人格や行動がこんなに変わるんだということをハッキリ理解した。ただし躁の時の行動がある意味面白おかしく書かれていたおかげで、そのしんどさ、家族の大変さについては、当時は良く判らなかったんだけど・・。

このエッセイは1986年から2003年に書かれたエッセイをまとめたもので、サンフランシスコの紀伊国屋の値札が貼ってあるのだが、自分で買い求めた覚えが全く無いので、おそらく帰国する誰かから買ったか貰ったのかも。

この本ではどくとるマンボウ躁状態の時に株にものすごいお金をつぎ込んだ時の話が結構長めに書かれている。1980年代の話なので、新聞や短波ラジオを聞いて市場動向をつかみ、証券会社に電話をして株の売買をするという、ある意味ものすごく牧歌的なやり方で滅茶苦茶なことをやっている。昔は証券会社の人が、買った物理的な「株券」を家に持ってきたりしていたのも面白い(今も?)。

今のようにオンラインで簡単にFXだなんだ、とできる時代だったら、どんな壮絶なことになっていたことやら。オンラインカジノだ、詐欺サイトにも引っかかってたかもしれない(苦笑)

それにしても作家って、どれ位儲かる仕事なんだろう。ここ何十年、日本の平均給与が全然あがっていないどころか、下がっているという話も目にする昨今だけれど、出版社に前借りする借金の金額や、株に費やした額そのものも、3-40年前の話だけれど、ものすごい額になっている。

ポケモンの話が出てきたのも意外だった、孫が夢中になっているものとして書かれていたのだが、どくとるマンボウの本でポケモンカードだ、ミニリュウオコリザル・・なんて言葉を見るとは思わなかった。それくらい自分の中では古い作家というイメージがあったのだけれど、思えばポケモンも登場してから随分時間が経っているということだった。

エッセイの後半は70歳代に書かれており、やはり体調についてのぼやきが多い。娘が書いたあとがきを読んでいても、元気だった頃の父親や、他愛のない日常が懐かしい思い出話となっていて、弱りゆく父親を目の前にあとどれだけ(本人はすごく嫌がっている)散歩に連れだせるか・・、と切ない終わり方になっている。なぜか色々著者の威勢のいい話からぼやきまで読んだ後での第三者によるこの文章は、自分の親も70代なのを思うと、ちょっとううとなった。

ようやく2度目

コロナの予防接種第一回目を今年春に受けた子供さん、ようやく2度目を受けることができた。

7月生まれの小さいさん(もうずいぶん小さくないのだが)、日本でいう所の「早生まれ」*1にあたるのだが、これが災いして、予防接種を受けるのもなかなか大変だった!

中学校で本来なら集団接種が受けられるのだが、対象年齢は12歳から。7年生でもまだ12歳になっていなかった子供は受けられず。今年の春、ようやく11歳以下の子供もコロナの注射が受けられるようになったので、学校を経由せずにワクチンセンターで一度目を打ってもらった。11歳なのでファイザーを子供容量。

2度目を受けるよう夏にNHSからお知らせが来たタイミングで、子供コロナに罹患。ほとんど症状が無かったのは良かったが、コロナにかかったあとは12週間、予防接種を受けることができない。そうしている間に子供12歳になる。

12週間過ぎて2度目を受けようと、受けられる場所を探して右往左往。最初にウォークインで行ったワクチンセンターでは、11歳で1度目を受けた場合は、12歳に2度目を受けるのも子供用じゃないとダメで、今日は子供容量の接種をやっていないと断られる。

仕方ないのでオンラインで予約できるセンターを探し、予約して電車に乗って向かったが、他の小さい子に混じって待っている大人位の背丈がある子供を見て怪訝な顔をする受付の人。状況を説明すると、12歳だったら大人容量を受けないといけない、前の人の説明が間違っているとのこと。今日は子供用の接種しかやってないから、来週火曜日に出直すように、予約は不要とのこと。だったらなぜオンラインでこの時間に予約ができたのかは謎すぎるのだが・・。

そして火曜日に出直すと、今日は50歳以上のブースターしかやっていない、12歳以上の子供の接種は土曜日午後だというではないか、ギー。人によって言うことが違いすぎる、火曜に来いといった担当者の名前を聞いておかなかったのが悔やまれる・・・。

結局は再度、別の接種会場に予約を入れて、電話で確認もして4度目の正直でようやく受けることができた。行ったのは薬局が併設されているNHSの診療所みたいなところ。ここは全てがスムーズに運んでホッとした。過去足を運んだ場所はモールやコミュニティセンターみたいなところに、一時的に作ってあった接種会場だったので、もしかしたらスタッフの知識があいまいだったりと現場で混乱が色々あったのかもしれない。

他の12歳の子供を持つお母さんからも、接種会場で受付の人が子供容量か大人容量か分からず混乱があったと聞いたので、12歳あるあるなのか?!学年で区切るか年齢で区切るかでどうしてもややこしいことになってしまう子供さんなのであった。

*1:イギリスの新学年は9月始まりなので、他の子供よりも年齢が低い。日本だと3月生まれみたいな感じ

ミラノ2:朝に晩餐

ミラノからロンドンに戻る最終日、朝から最後の晩餐を見に行った。

ダビンチの有名な絵は、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、の横にある修道院の、食堂だった建物の壁に描かれている。見学は予約制になっていて、かの有名な壁画を見ることができる時間は15分のみとなっている。予約時には見学者全員の個人情報を求められ、チケットにもそれぞれの名前がちゃんと印刷されていて、なかなか細かくものものしい。

中に入る前に金属探知機を通り、衛生管理の厳しい食品工場かホコリを入れない半導体工場風に、2回ほど自動ドアで仕切られた違うエリアを通った。これで人の流れや外気との接触を管理していると思われる。

壁画に到達するまでのエリアには、教会の歴史についてのパネルが展示されている。そしてちょっと面白いのが、最後の晩餐の保存にはEataly (日本にもあるイタリア食材店)が一役買っているそうで、その紹介パネルもあった。晩餐だけに!

なんでも壁画を保存するために必要な、最新の空調システムの資金提供をしているらしい。

さて、肝心の晩餐・・じゃなくて壁画である。なぜか小さな壁画が、小さな建物に保存状態悪く残されているのだと勝手に想像していたのだが、実際の最後の晩餐や建物は随分大きかった。

もともと食堂の壁に描かれていたこの絵。昔は部屋に椅子やテーブルも置いてあり、多くの人が出たり入ったりしていたんだろう。しかし今は何もない、がらんどうである。

そんな空間に20人ぐらいが入って、皆色々な言葉でヒソヒソゴニョゴニョ話しながらダビンチの名作を見た。ヒソヒソ声が建物に静かにエコーして不思議な音になっている。ダビンチの時代の人達の声も、こんな感じで建物に響いていたんだろうかと考える。

最後の晩餐は、もうテレビで、映画で、本で、メディアで見たことある!と想像通りの最後の晩餐であった。

実はこの建物の反対側の壁にも別の画家の別の壁画がある。みんな最後の晩餐を見に来るので、随分古いものであるのにスルーされまくっている残念な壁画である。

ただやはりこの反対側の宗教画と比べると、ダビンチの壁画は構図がやはり秀逸というか、色々と想像をかきたてるものがある。それにシンプルでごてごてと色々描きこまれていないところが、逆に名人技だなと思ったりもする。

全部「ダビンチコード」のせいだと思うけど、やはりこの絵には何か隠された意味があるんではと、キリストと使徒たちのそれぞれのポーズを、15分間目を凝らして見続けた。

15分経つと、どこからか「15分経過したから速やかに退出するように」的なイタリア語のアナウンス(録音ではない)があり、出口専用の扉がスーッと開いた。ちょっと古いサイファイ映画の監獄か何かのようだ。

展示部屋を出ると、監視カメラの映像がモニターに沢山映し出されている、監視ルームみたいなのがあった。モニターの前には指令マイクみたいなものもにょきっと見えた。ここで係の人が見学者の動きを見張り、退出を促すようマイクでしゃべって、出口のボタンもきっとここで押したのだろう。いい仕事だな、となぜかふと思った。

壁画は何回か修復されており、修復がどのように行われたかの説明パネル、そして戦争中、この壁画の前に土嚢をびっしり積み上げ、足場を組んで保護していた時の写真も展示されていた。

この修道院、第二次大戦中、空爆の被害にあっている。しかしこの土嚢のおかげで、ダビンチの壁画は奇跡的に守れたんだそうだ。瓦礫の中に、土嚢の山や壁画の壁が残っている写真もあった。ちなみに空爆したのはイギリス軍である。そのことはなぜか説明には書かれていなかった。

教会の外には広場があり周囲のスペースも多少ゆったりしていてなかなか気持ちが良い空間だった。そして教会のほうから、ものすごいうねるような地響きのするようなパイプオルガンの音楽が流れてきた。引き込まれて入って行ったら、聖油の瓶を持ったおばさんがすごい勢いでやってきて、ビジターは入っちゃダメと扉を閉められてしまった。そうか守護聖人の日のミサだったんだな。