愉快的陳家@倫敦

ロンドンで、ちょっと雑だが愉快な暮らし。

ポルトガルは良いその⑨:シントラ宮殿と再会と

山の上にあるペーニャ宮殿を下り、駅に向かう途中にあるのがシントラ宮殿

こちらのほうが歴史的には古い宮殿だそうで、地震などで崩壊、修復などはあったものの王族が長年住んでいたらしい

相も変わらずタイルの美しさよ。ちょうどチャペルは修復中、皆ワイワイキャッキャと楽しそうに仕事をしていた。こういう宮殿が建てられた当初も、こうやって色んな人がおしゃべりしたり休憩したりしながら、ちょっとずつ作っていったんだろうなあ、などと思ったりして。

この施設には入口以外に学芸員さん的な人もおらず静かなものだったのだけれど、私達の前に来ていた客が爆笑しているのを見たらこれ。キャミソールを着たイエス???なんでこんな格好してるの??

謎をそのまま持ち帰ってしまったのですが、似たようなことを考えた日本人が他にもいたようで、ここに回答がありましたw

rocketnews24.com

へぇぇ、ラクダねえ・・他の洗礼者ヨハネの絵を見てみると、ラクダといってももうちょっと原始人みたいな服装のものが多くて、青いのはなぜかさらに謎なんですが・・。


しかしなにより、シントラの良いところはその高低差。リスボンとはまた違う自然の中の段々の中に建物が点在しているさまは、ちょっと見ているとこれまたジブリの世界にいるような気がしてくる。と同僚に話したら滅茶苦茶笑われたんだけど。

山の上には城壁。この他にもムーア人が建てたものなど、色々お城や要塞的なものが残っている。

シントラ宮殿周辺の坂の上の小道にお土産屋やレストランなど観光客向けの施設が色々とある。時間が時間だったのでレストランは閉まっていたり、人気のところは満杯だったり。仕方なく適当に入ったお店は、Googleマップで星二つでちょっと警戒したものの


お店の人とちょっと世間話したらとてもフレンドリーだし、出てきたご飯も普通に美味しかったのでホッ。ポルトガルでは良く出てくる干した鱈が入ったコロッケ風のもの、そして珍しいのは牛肉をピクルスと一緒に料理したもの。お肉を酸っぱいものと合わせるというのが、南蛮漬けの歴史を思い出させたりもして。

www.maricafejp.com

それにしてもこんなに美しい街、シントラ。リスボンにも近いし、住んだらどんなに素敵だろうなあなんて思うことしきりだったのだけれど、実は元同僚がこの街に住んでいると知り、観光ついでに会うことができたのも大きな収穫だった。

ポルトガル人のMちゃんは、私がシリコンバレー某社勤務時代、ダブリンのオフィスにいてバーチャルに一緒に仕事をしていた仲間。実際に会ったのは、彼女がダブリンからの「アンバサダー」として、シリコンバレーの本社に1クオーターだけ来ていた時のみ。それからも10年以上が経過・・

Facebookでゆるくつながっていて、私がロンドンに引っ越し、一度リスボンに出張に行ったときにも今度来た時は連絡してね、とメッセージをもらったものの、彼女が住んでいる場所についてはピンと来ていなかったのだけれど・・。今回もシントラは子供が行きたいというので予定を立ててみたら、たまたま彼女の家がそこにあるというのに後で気付いて慌てて連絡をしてみたのだった。

10年以上前、ある意味テクノロジー最前線どっぷりで仕事をしていた仲間、でも彼女も今は翻訳出版業という全然違う世界で、シントラでゆるくある意味エコな暮らしをしているよう。なんだかお互いの今を考えると、随分遠くに来たもんだ、という感あり。お土産に、家の庭で取れたタンジェリンを、これまた手作りの袋に入れて渡してくれたのだけれど、その甘かったこと!

以前、当時の会社を辞めて、他の会社の面接を受けに行ったときに、エレベーターでよく知らないけど隣の部署で顔見たこと位はある、という人とばったり会って、滅茶苦茶盛り上がったことがあったのだけれど、やはり当時同じ場所で働いた同志というのは、なんともいえない連帯感というか、繋がりを感じるものですね。あの会社辞めなければよかったかなあ、と思う事もちょっとあったりしたけど、その後会社がどんどん巨大化して雰囲気も変わってしまったし、でも当時は本当に学校の延長みたいで楽しかったな。そして今でもこうやってあそこでなければ出会えなかった色んな人と緩くでも繋がっていられるのはとても良かった、と思ったのでした。

ポルトガルは良いその⑧:古都シントラ

リスボンから電車で1時間弱、古都シントラへ。

駅を出るとすでに周囲にはいい感じの高低差。山道にすぐつながるのは、なんとなく大阪の生まれ故郷を連想させたりもする。

対向車が通り過ぎるのは無理そうな細い山道をくねくねとバスで登って行って、向かったのはペーナ宮殿

子供がNetflixの旅番組で見つけてきて、行くことに決めたもの。

このカラフルさが、ちょっとディズニーっぽくて子供にも人気、なんて番組では言っていたけれど、もともと廃墟だった修道院を、19世紀に夏の離宮として改装したんだそう。比較的新しいといえば、新しい。

思えばポルトガル王室についてはあんまりというか全く知らないなあ。イギリス含め欧州各国の王室と色々親戚なのは他と同じみたいではある。

ポセイドンの息子さん、トリトンです。

修道院時代を思わせる回廊。そして美しくも、派手にはならないタイルの数々。

各部屋もとてもこぢんまりしている。このダイニングルームは、今でも国賓をもてなす場所として使われているみたい。いいなあ。

でも部屋からの眺めがいちいち素晴らしい。これは昔のトイレからの眺めですよ!

王室が王室として贅沢な暮らしを許されていた時代はもう遠い過去・・今はこうやって一般人がわーいと半ば空っぽになったスペースを物見遊山で見物しているわけだけれど、こんな天空みたいな場所で日々生活していたら、どんな気持ちだったろうな。

ポルトガルは良いその⑦:LXファクトリー

サンフランシスコを思うような海沿いを西に向かっていくと、工場だった敷地をヒップにアップデートしたLXファクトリーという施設があります

LXはリスボンの古文表記でもあるらしい。

工業地帯や倉庫街だったところにクラブが出来たり、アーティストが集まってコミュニティを作ったり、そこにロフトアパートが出来たりという流れは色々な場所で見られますが、リスボンも御多分に漏れずそんな場所あり

様々なお店やレストラン、アートスタジオやギャラリーが入るこの施設。古着屋さんや和紙の店、床屋にタトゥーパーラーと、古い工場を手作り感いっぱいに改装していて、ちょっとオークランドっぽいのも、ベイエリアを連想させるものでありました。

この施設に限らず、リスボンの街角には色んな壁画やアートがあったり、クリエーティブな雰囲気があるのもとても良いですね

一昔のリスボンの旅番組など見ていると、もう少しグレーで、ただただ古い町並みと、昔のままのハンチングとウールのジャケットなんかを着たお年寄りばかりがウロウロしている街、というイメージも強かったリスボンですが、古いものも残しつつ、上手にアップデートというか活性化している感があるなあ、いいなあと思った次第でした

ポルトガルは良いその⑥:ベイエリアとリスボン

リスボンとサンフランシスコベイエリアは、良く似ていると言われる。

坂の街だし

ケーブルカーもあるし

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海が近くて、食べ物がおいしいし

しかしこれにはびっくりした。

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一瞬、ここはエンバカデロ?と見間違うような場所。



海岸沿いに電車やトラムの線が走り、向こうに見えるのはベイブリッジ?でも赤いからゴールデンゲートブリッジ?

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なんでもこの橋は全部同じ人がデザインしたそうで、似ているのはさもありなん。

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これはリスボン

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これはベイブリッジ

橋に向かって歩いていると、本当にサンフランシスコに戻ってきたような錯覚に陥るのでした。

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これはリスボン

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こっちはゴールデンゲート

そしてポルトガルは近年、デジタルノマドフリーランスなどでリモートで働く人が滞在しやすいビザを出しているので、世界各国から色んな人が結構移住してきていたりして、意外と活気がある。

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ヨーロッパのシリコンバレーならぬ、シリ「コイン」バレーを目指すとな。

結構街を歩いていても観光客っぽくないアメリカ人を見かけたりも。

物価も比較的安いし、ご飯も美味しい。そして私がポルトガルいいなぁ、と思ったのは、人が良い。

英語が結構普通に通じるのも有難いけど、みんなすごく普通に親切で普通に良い感じの人が多い。

まあ短期間の観光客としてしか滞在していなくてどこまで見えてるかはわからないけれど、旅行に行くと多かれ少なかれちょっと嫌な目にあることは無きにしもあらず。サービスが悪かったり、機能してなかったり、あとは意識的無意識的人種差別だったり。リスボンは2回行って、そういった経験が(まだ)一度もない。

歩いていてもニーハオとか言われないし、いちいち何人とか聞かれないし、本当に普通に、平等に接してくれる感じの人ばかりだったのは、すごく良かったなあと思ったのだった。

まあ住むとなると、行政サービスの問題とか、家が壊れたとかいったトラブルとかでまたキーっとなることはあるんでしょうけれども。

話がベイエリアに似ている、から飛んでしまったけれど、結構ポルトガルなら住んでもいい、住みたい、っていう人は周りに結構いて、私もリスボンに行くとほわんといい気分になるし、懐かしいベイエリアの感じもいいなと思うので、住むには悪く無さそうな気がしています。

不実な美女か 貞淑な醜女か 通訳悲喜こもごも

ひとり米原万里まつり。ロシア語通訳第一人者だった米原万里さんの、通訳という仕事に関する流儀、通訳珍プレー好プレー、言葉を伝えること、というコミュニケーションや言語そのものについての話などをまとめた文章を何年かぶりに再読した。


プロで通訳をやっている方とは比べ物にならないが、私も学校を卒業して最初の仕事が日本企業や政府機関を相手にするものだったため、業務の一環として現場に同行して通訳をする、という機会がかなりあった。

とはいっても、通訳の訓練を受けたことは一度もない。初めての現場にはメモ取り係として同行し、上司がサラサラと通訳しているのを眺めていただけ。なのに、次の現場では通訳もお願いね、とほぼムチャぶりをされ、泳いだことが無いのにいきなり海に突き落とされた。上司に言われた唯一のアドバイスというか言葉は、「あなたなら、出来る!」。

そんな精神論にさえならないようなお言葉を頂き、後はとにかく沈まないようにもがき続け、そのうち自分なりに通訳業をこなすというか、やり過ごす方法をほぼ直感的に身につけた感じである。

通っていた大学では、言語科に通訳の授業もあり、生徒達がLL教室で、諜報機関の訓練よろしく、色んな機材を使って学んでいるのを、他学科だった私は横目で見ていたものだったが、そんな特殊訓練も受けず、他の通訳者の仕事ぶりを見て学ぶ機会もないまま、自己流すぎる通訳をやってきたので、自分がやっていたのはちゃんとした通訳だったのかも自信はない。

会議の通訳は、やっている最中はアドレナリンが出て、変な快感もあったりするのだが、会議前は気が重いし、2時間ぐらい喋り続けた後は全身打撲のような疲労が体を襲い動けなくなったりと、やはりあまり好きにはなれない業務ではあった。さらに通訳者として雇われているわけではなく、プロジェクトの一環として通訳をやってるだけなので、その後自分で議事録も作らないといけなかったとか、今考えるとほんと酷い仕事の振り方や・・・。

そんなこんなで、米原万里さんの書く通訳という仕事そのものに関するエッセイは、読んでいて色々フラッシュバックが起きて、初めて読んだ時はちょっとしんどかった記憶がある。がそんな昔の仕事のトラウマ(笑)も薄れて再度読み返してみると、滅茶苦茶自己流の通訳をやっていた私でも「あるある」と共感できる点が多いというか、100%共感しかないのに笑ってしまうばかりだった。

相手が話すことをいちいちノートに取るなんて無理なので絵や記号やフローチャートで効率化してみたり、と思ったら自分のメモが読めなくて意味がわからなくなったり(笑)。要点を得ないであーうーごにょごにょ言っている部分はバッサリ端折ってしまったり、言っていることが分からず慌てるも、文脈から推測してそれがドンピシャで事なきを得たり。

用語がわからなすぎる話は専門用語ではなくて、その用語で説明される事象そのものをペラペラと喋ってごまかしてみたり・・・全部、やったことある。のちのち形に残る「翻訳」ではなく、通訳は言葉は発した先から時間とともに消え去ってしまうこと、通訳をしている時間さえやり過ごせば(笑)なんとかなるというのも実際有難かった。

私の場合は、自分が担当しているプロジェクトの一環で現場に行くので、プロジェクトそのものが通訳の事前勉強みたいな感じになるため、客が資料を出してくれず、内容がわからず困る、という経験はあまりなかった。それでもプレゼン資料が当日いきなり登場することもあり、やはり通訳ができる位にその案件に詳しくならなければいけない、というのは、自分は専門家じゃないのに・・と割に合わない気持ちでいっぱいになることは多々あった。

ある日はITセキュリティ、ある日は核廃棄物の処理方法、ある日はバイオ燃料としてのトウモロコシについて。現場にぱっと行って、自動翻訳機みたいに右から左に言葉が出てくるものではないからいっぱい情報を詰め込む必要がある。でもどこまで知っておけばいいのか、目途がつけにくくて困ったのも、米原さんの文章の通りである。無礼な日本側の発言を、直訳すると大変なことになるので、オブラートに包んで穏便に運ぶために心を砕くし、日米双方の会話を通訳するので数時間自分だけずっと喋りっぱなし。通訳者の労力とストレスは、実は想像を絶するものがある。

その割に、通訳は軽視され、時にはお使い係のような扱いを受け、その労力の割に感謝されないと感じることが多かったのも、トラウマの一環かも。海外に出張に来るものの、通訳がないと全く機能しない日本のおじさん集団のふるまいや仕事ぶりに、がっかりしたり嫌な気持ちになることも多かったのもトラウマなのかも。思えば当時の仕事でリスペクトできるような仕事相手がいなかったのは不幸すぎた。

知らない世界を垣間見られるのは興味深い部分もあったけど、自分が本当に知っていること、言いたいことを自分の心の底から話しているわけではない、どんなに頑張っても当事者になれないという点も私にはちょっとしんどくて、それ以降は通訳業や日本のおじさんとやり取りが必要な仕事にはつかなくなり、だいぶストレスが軽減されたのも事実(苦笑)

・・・と読書感想というより自分のなんちゃって通訳経験談になってしまったが、それくらいフラッシュバックが凄かった本でした。この本は27年前に書かれているけれど、オリンピックやら何かのイベント毎に通訳無料ボランティア問題が話題になったり、今も通訳という仕事に関する理解はあんまり深まっていないんじゃないかなあという気がする。

また、ノウハウが無いまま通訳をやっていた私も同じような経験をしたり、共感できたり、似たようなことを考えたことがあるなあ、と思いながら読んだ点が多いということは、通訳という技術は実際どれくらい体系だって学べるものなんだろう、という点も疑問に思った。米原さんの文章を読んでいても、通訳という技術は、教科書から学べるものというよりは、ある意味、個人のセンスだったり、人のやり方を見てなんとなく感覚的に覚えたりするような、職人技的技術の域をなかなか超えられていないような気がしてならない。世の中にある通訳スクール的な所ではどんなことが教えられているのかも、ちょっと興味を持ったのだった。

通訳者の壮絶な事前勉強。言葉、文化、ニュアンスに思いを馳せ心を砕くさま。一方で限られた時間に不実な美女(原文に忠実ではないが心地よく聞こえる訳)を生み出すか、貞淑な醜女(原文に忠実だがぎこちない訳)を生み出すか、スピードとアドレナリンラッシュのジェットコースターをある意味叫びながらも楽しむさま。それぞれの仕事にはそれぞれの大変さがあるのは承知だけれど、ちょっとでも通訳をやったことのある者としては、もっと沢山の人に、通訳というのは翻訳機以上のものなのだ、ということを少しでもわかってほしいと願ってしまう。

おまけ:

この本の「師匠の目にも涙」という文章の中で、米原さんは通訳が話者のジェスチャーや言葉の調子、エモーショナルな部分をそのまま再現していくと、笑劇以外のナニモノにもならない、という話を書かれていた。ちょうど最近銭衝さんが、サンシャイン池崎のギャグの「通訳」をするアメリカ人というコントをポストされてたのを思い出して笑ってしまいました。まさにこれは通訳が全てを再現したことが、お笑いになっている!

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一方、同じ文章の中に、被爆者が会議で語る被爆体験を通訳していたベテラン通訳が感極まってしまい、涙で通訳できなくなったエピソードもありましたが、先日ゼレンスキー大統領のヨーロッパ議会での通訳が、やはり感極まって涙声で通訳をしていたのも思い出します。米原さんの文章では、このベテラン通訳者さんが、話し手が訥々と感情を抑えた話し方で辛い話をされたことで自分が逆に感情移入してしまったことを後悔し、抑制された演技で笑いや涙を誘う一流の役者を引き合いに出し、訳者も役者同様、抑制を利かせることが大事、と語っていました。ゼレンスキー大統領の場合は逆に、通訳者の涙が情勢の深刻さ、辛さを引き出したようで、通訳としてこれが正解なのか不正解なのかはわからないですが、聞いた者としてはよりウクライナにより心を寄せることになる、とても印象深い通訳だったとおもいます。

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