愉快的陳家@倫敦

ロンドンで、ちょっと雑だが愉快な暮らし。

【室内楽ワークショップ】イベールの2つの間奏曲とトルストイの言葉


3ヶ月腰を据えて取り組んでいる久しぶりの室内楽。ピアノ、バイオリン、フルートのトリオで、イベールのプレリュードという曲を練習している。1月中には2度集まり、毎回2時間近くそれぞれの楽章に取り組んだ。

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技術的には難しくない(バイオリンはちょっと大変そうなところもある)から飽きるかな、と思っていたこの曲だが、当然ながら深く深く理解しようとし始めると時間があっという間に過ぎていく。

感情を込めて吹いているつもりでも、意外とはたから聞くと綺麗には聞こえるがのぺっと聞こえることもある。楽譜を追うばかりに、ただただ硬いだけの部分もある。

のだめで言うところのもっとくねくね、はう〜んとパフォーマンスすることは実はものすごく大事で、自分では大げさだと思うくらいの動きやら表現をしないと、自分が思ったよりもそれは意外と外に出ておらず、よって聴衆に伝わらない。今回もそういう部分をもっとほぐしていく作業が続く。実はスローで音の動きが少ない曲の方がそのところ難しい。

学生時代に演劇をかじっていたせいか、根がお調子者のせいか、あまりそういうパフォーマンスをするのが苦にならないのが今更役に立つ。というかもっとやりたい。

そしてやはりアンサンブルであるので、ただ気まぐれに自分の気の向くままに感情を表現するのでは意味がない。相手の音を理解しなくてはいけない。自分だけ1人で盛り上がっていてもどうしようもなく、お互いの音を聞きその場その場で誰にスポットライトを当てるか、楽譜には書ききれていないニュアンスをどう表現するか、調整していく。楽しい。楽しすぎる。

ただし惜しむらくは「ワークショップ」である故か、これらの指導はほぼ指導官の解釈、指揮で行われる。当然と言えば当然ではあるけれど、やればやるほど自分なりの解釈や意見が出てくるようになって、それをもっとみんなで喧々囂々話し合いたいなという気持ちがむくむくと湧き上がってきている。

でもクラシックをたしなむ人は往々に指揮者や指導者に導いてもらうのに慣れているせいか、年配の方々でも言われたらふむふむと言ってそれに従うので、表現に関するディスカッションにまでは広がらない。「僕の独断場みたいになっちゃいそうだけど大丈夫?」とふと言われて、フルート以外のパートのことについても次回からはもう少し意見というか提案してみようかな、と思った。

先生に色々表現方法を指導してもらうワークショップもいいけれど、指導者がいなくても、自分達で集まった時に自分の頭で音楽についてどう考え、どうみんなとコミュニケーションを取り、どう組み立てていくか。そういうプロセス作りももっと覚えたいなと思った。クラシックやる人はどうもそういう部分が受け身になりがちな気もするので。

クラシックの世界は楽譜の通りにやってなんぼ、正確性ばかりが求められるようになっているのは由々しきことだと先生は言う。ホロヴィッツなんて演奏会ではかなり間違いまくり、でもそれも含めてのパフォーマンス、それでも聴衆を感動させられるほうがどれだけ大事かと。

録音技術が進んだせいもあり、曲を細切れに録音できるので必要以上にテンポの早い録音も多いという。聴衆もそういうものを聴き慣れてしまっていることもあり、演奏者はただただ精巧に正確にという呪縛にはまっていく。バイオリンの人も間違えるのを必要以上に気にするので、先生がトルストイのこんな言葉を引用した。

The goal of the artist is not to solve a question irrefutably, but to force people to love life in all its countless, inexhaustible manifestations.

芸術家の仕事というのは、問題・疑問の解決方法を示すことではない。それより、人々が自分の作品に触れることで、どんな時であっても人生って素晴らしいと思わせること。「人生を愛させてしまう」ことが目標だ(何しろforce people to love life)、と。泣いても笑っても、音が間違っていようと、それに触れることで人生っていいなと思わせるような演奏ができるのが一番。

軽く冗談風に先生は言っていたけれど、そうだよな〜〜〜そうありたい。ととても心に残った。