え〜、海を渡ったサムライといえば咸臨丸でしょう?と思われがちなんですが。実際そうなんですが、ムムムッ!それだけじゃあ〜ないんです!実は咸臨丸の一団が到達したのはサンフランシスコまで。これとは別に、ワシントンDCまで行った一行が別にいたん〜です!
ポーハタン号で海を渡ったお侍さん達
お侍さん達、なぜ二隻の船に便乗してまでわざわざ船に乗ってアメリカに行ったのか。別にこれ、見聞を広めるために行ったわけでもなんでもなく、ちょっとホワイトハウスに持っていくものがあったから行ったのであった。
1853年、メリケン国からペリーが黒船でやってきた後、今度はタウンゼント・ハリスというおっさんが日本にやって来て、なあ、仲良くしようや、自由に貿易させろや、なあ〜、と色んなことを江戸幕府に迫ってきた。
仲良くしようや〜 |
その2年後の1860年。この約束で正式にオッケー!と公式にお互いが認めたことを証明する「批准書」を持っていくために、江戸幕府がアメリカに人を送り込んだのが万延元年遣米使節団だったというわけである。
いわば、日本初、ジャパニーズ・サラリーマン海外出張団!
批准書を持った「正使」の一行はアメリカの軍艦ポーハタン号に乗り品川を出発。咸臨丸も、この「正使」一団に何かあった時のための予備軍として、一足先にサンフランシスコに向けて出発。
咸臨丸はポーハタン号が無事にサンフランシスコに着いたのを見届けた後、じゃ、あとはヨロシク!と日本に帰国(航海中ずっと船酔いが酷かった勝海舟がこれ以上先に進みたくなかったのも帰った理由のひとつらしいw)。
正使一行は、ここからまた船を乗継ぎ、パナマへ。当時まだ運河が無かったのでそこから鉄道に乗り、大西洋側に出た後また船に乗り換え、ワシントンDCに到着したのは出発から3ヶ月後のこと。
その後しばらくDCに滞在して批准書交換を行った後、ボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークに行き、ニューヨークではブロードウェイをパレードし、そこからまた船に乗り、喜望峰経由でほぼ世界一周をして日本に戻ってきたのであった。
どうも世間で咸臨丸のことばかり知れ渡っているのは、「日本の船で初めて外国に行った」ということと、勝海舟、福沢諭吉にジョン万次郎というキャラが立った人物が乗っていたから・・と、マーケティング素材的にイケてる要素がいくつもあったからだと思われる(正使のメンバーで唯一有望だったのは小栗上野介だがご存知の通り、後に斬られてしまった)。世の中には咸臨丸の一団がホワイトハウスに行ったと思っている人も結構いるらしい。
Navy Yardで除幕式
今回、この使節団がDCに上陸したことを記念する記念碑が建てられたので、日本から来る両親に声をかけてもらい、その除幕式に子孫の一員として参加させてもらった。自分はなーんもしてないけど、なんだかご先祖さまが面白い経験を棚のボタ餅的に落としてくれた風である。小さいさんは他の子孫の子供と一緒に碑の除幕をやるという大役を仰せつかり、母が日本から私が七五三で着た着物やら何から一式かついで持ってきて、わーきゃーしながら着付けした。
碑が建てられた場所はNavy YardというDCの南のほう、アナコスチア川に面した海軍の施設内の公園の一角。まさしく使節団が上陸したところ↓
それにアナコスチア川の汚さといったらヒドイもので、チームメイトの中には怪我した足に川の水がかかったことでばい菌が入り、死にかけた人までいた位。
でもその後、近くにナショナルズという野球チームのスタジアムが出来、今回これまた10年以上ぶりに足を踏み入れたこのエリアは、新しいオフィスエリアやコンドミニアムが立ち並ぶ、全く違う場所になっていた。その変貌は、「昔漁村だった香港」と「今のネオンサインだらけの香港」の違い並の衝撃であった。
会場となったNavy Yardは数カ月前に銃乱射事件があったばかりで、結構セキュリティがピリピリしている感じだった。そんな中日本からも子孫関係の皆さんがたくさんやってきて、海軍がホストする形での除幕式。
子孫の会の会長さんのほか、日本大使館、サンノゼ空港にも名前がついているノーマン・ミネタ元議員が来賓でスピーチしていった。
大使館の尾池さんのスピーチがなかなかおもしろかったが「外交官というのは普通、舞台裏で注目されずに職務を果たすもの。自分の長い外交官のキャリアの中でも、日本の外交団が自国に来たということを、特に外国の軍隊が、こんな形で記念してくれるような場は、これが初めて」だと言っていた。
確かに、使節団の本来の業務は、外交文書持ってきました、って裏方の話なんだけれど、何しろ「遠いし、鎖国してたところからいきなり行ったから超大変だったし、色々ビックリした」っていう点で、日本側の思い入れが格段強い出来事であったのは間違いない。
アジア系アメリカ人として初めて閣僚(商務長官・運輸長官)をやった伝説の日系人ノーマン・ミネタ氏は御年84歳、この間のサンフランシスコの桜まつりで、後ろにコスプレ軍団を引き連れてオープンカーでパレードしているのを見かけたばかり。杖ついてるし、元気なのかなあ・・と心配していたが、ピンピンに元気で、ブルース歌手にでもなりそうないい声で、慣れた感じでえらくリラックスしてスピーチをされていた。さすがや。
サンノゼ出身のミネタさんに、後でうちもカリフォルニアから来ましたっ!と突撃して色々お話してきたが、気さくなかっこいいおじいちゃんだった。でも自分のペースでぱっと話を切り上げるところはさすが政治家やな・・と多少目もさめたw
この他にも、使節団がアメリカに来た時にずっとお世話をしてくれたというデュポン大佐(DCの地名デュポンサークルはこの人にちなんだものらしい)の子孫も、当時使節団からのお礼としてもらったという刀や望遠鏡を振り下げてやってきた。
そしてこちらが小さいさんが除幕した記念碑。小さいさんはとにかくカワイイと褒められ、一緒に除幕した大きなお姉ちゃんたちと仲良くなれたことにご満悦だったw
意味は後から考えよう
今回DCに行くきっかけになった、こちらがヒーヒーお爺さん。当時まだ20代。その後、文久元年の欧州使節団のメンバーとしてヨーロッパもまわっている。よっぽど船酔いしない人だったに違いない。
こういう先祖がいる、ということは子供の時に話を聞いて多少は興奮したし(やっぱり歴史漫画で読んだ咸臨丸と混同していた)ニューヨーク、DC、サンフランシスコと、私がアメリカで住んだ場所だけでなく、世界のどこを旅してもこのお爺さんが先回りしてやって来ている!(エジプトやマルタ島でさえ先に行かれていた)ということに気がついた時には、うわーなにこれ、何かの運命?意味があるのかな?的な考えがちょっとはよぎらなくもなかった。でもまあ、ちょっと考えれば昔からある主要都市ばかり行ったり住んだりしてればそんなのカブって当然で、偶然もいいところなんですけれどね。
おそらく上司に海外出張を命じられたサラリーマン的立場で行ったんじゃないかと思われるこの件については、使節団そのものが歴史的な意義や意味を持ってこれからも語り継がれるのは良いとしても、子孫だということで自分の中であまり大きな意味をもたせたりオオゴトにしたくないなぁ、という感じがしている。
どうも最近過去を振り返りたくない、深く昔のことを思い出す必要性を感じなくなっているところに、先祖のこういう話が舞い込んできたので余計遅く来た反抗期的考えが起こっているのかもしれないけれど、もう少し歳を取ったら、また違った目で色々と見えてくるのかもしれない。多分今は今の自分や家族と先へ先へ進んでいくことが最優先の時期なんでしょう。
でも一体どういう気持でこの「ミッション」に参加したのか、どういう機会と捉えていたのか、ヒーヒーお爺さんにもし聞けるならそこらへんを聞いてみたいなあとは思った。
しかし総じて今回は子供も含めて面白い経験が出来たし、遠い親戚にも初めてお会いできたし、久しぶりにDCにも行けたし、ヒーヒーお爺さんのその後の仕事の話も聞いて、外国にいった経験は全く無駄ではなかったこともわかったしで、なかなか興味深い経験になった。
まあとりあえず、今日はワシントンやニューヨークに行ったのは咸臨丸じゃないよ!ってところだけでも覚えて帰って行ってくださいね〜。