愉快的陳家@倫敦

ロンドンで、ちょっと雑だが愉快な暮らし。

あれから3年


「あの日からアメリカは、世界はこういうふうに変わった」という分析はとても複雑壮大すぎて私にはできないが、あの日から自分は、9月の自分の誕生日前後になると意味もなく憂鬱な気分になるようになってしまった。しかも毎年、前日にハリケーンが来ていようが何であろうが、ワシントンの空はその日になると雲ひとつないすこーんとした快晴になるのである。ある意味じめじめした日に憂鬱な気分になるのは雰囲気があってまあいいか、と納得づくめでそんな気持ちに浸ることもできるのかもしれないけれど、からっからに晴れた日にユウウツな気持ちになるのはさらに気が滅入ってしまう。9・11前と後のアメリカがどう変わったかを明確に捉えて書くことは難しいけれど、自分としては、あの年、あの日を境にふとやってくるようになったそんな気持ちを確かめることで、あの日からやっぱり何かが変わったよな、ということを実感するようになっている。


あの日はホワイトハウス横の会議場で朝早くからわけのわからない会議があり、いやだなぁと思いつつ、朝食を食べながら基調講演を聴いていた。講演が終わって部屋の外に出たら、会場に設置された何台ものテレビが煙をあげるWTCを写していたのだった。テロらしい、爆弾らしいとみんなが話すものの、朝早いし、眠いし、そんな中であまりに現実離れした映像が目の前にあり、自分も含めみんなそれをどう受け止めてよいやら解らず、ずっとテレビの前に突っ立っているわけにもいかず、次の会議場にそれぞれ移動した。でも次の会議が始まってしばらくしないうちに、背広のオジサンがそれこそ「Stormed in」してきて、ペンタゴンが爆撃された、みなさん仕事に戻ってください、(ペンタゴン関係者も多かったので)と落ち着いた声で言った。その妙に落ち着いた言い方が今でも一番に思い出す。


それからは、みんなが勝手ばらばらに行動を始め、ひとりで参加していた私はとにかく家に帰らなければと思うものの、何か誘導があるのかもわからず、しばらく会議場をうろうろおろおろしていた。携帯も当時は持っていなかったのでダンナとも電話はできず、ペンタゴンが爆撃(その時はみんな爆弾だと思っていた)されているなら、もしかしてワシントン中に爆弾が仕掛けられているかもしれず、家に帰るといっても地下鉄に乗っていいものか、歩いたとしてもどこを通れば安全なのか、とにかくひとりで決断しなければならない。でも会社や自宅に無事を確認する電話を入れている人がいると思えば、会場運営をしているおねえちゃんは「みんな帰っちゃって、せっかく用意したお昼はどうしたらいいのかしら」と暢気にぼやいているし、ここだって爆弾が仕掛けられているかもしれないのに、意外とみんなぼんやりしていた。おかしな話だけれど、何か非常事態があっても、努めて日常のルーティーンをこなそうとするのが人の性質らしい。


外は政府ビルから出てきた人でがやがやしていたが、みんな平然と携帯で電話したり歩いたりしていた。自分も平然と歩いていたが、頭の中ではかなりあせっていたから、他の人もどんな気持ちだったかわからない。頭の上を戦闘機がものすごい爆音をあげて超低空飛行で飛んで言った。機体が見えないのが余計に不気味だった。歩いて帰ろうとも思ったが、途中でひどく脱水症状になってしまい、くだり電車だから大丈夫と自分に言い聞かせて地下鉄で帰った。家に帰ったらそこはあまりにも平和で静かで、ダウンタウンでの喧騒はウソのようだった。とりあえずジーンズや長袖に着替え、銀行から現金を出し、スーパーで水やら必要なものを買出しした。でもスーパーも銀行も、どこに行っても何も無かったかのように物事は平然と進められている。あれは夢だったのかなぁ〜、こんなことしなくていいのかも、と一瞬思いながらも、重たい水やら缶詰やらを抱えて家に帰ってきた。その頃ダンナが歩いて戻ってきた。彼のビルからはペンタゴンから黒煙が上がるのが見えたらしい。気持ちを落ち着けるためにバーにより、ビールを飲み、テレビニュースを見たと言っていた。会社は翌日行かなかった気がする。この間ずっと空は快晴だった。


何かがひどくショックだったというわけでもない。周囲もいたって冷静だった。ただ、神戸の震災の時もそうだったと思うけれど、何かが起こっている場所から少し先に行くと、そこには普通の生活が普通に行われているというモザイク的な状態が、自分をひどくナーバスにさせたと思う。夜になると、鈴虫の声しか聞こえない静寂の中を、ヘリや戦闘機がものすごい音を立てて真夜中でも飛びまわるようになった。「戦争」も始まった。DCの人たちはあの日のことについてあまり語ることもなく、黙々と戦争の準備を始めていった。誰と会っても、政策の話にはなっても、あの日、あの時自分がどんな気持ちになったか、どんなに恐かったか、ということを語る人はいなかった。オフィスでも、ダウンタウンで逃げ回っていたのは私ひとりだけ、後はみんなオフィスで終日仕事をしていたらしく、あまりこのことについて話しはしなかった。なんとなく家にいるのがいやで、数週間は毎晩飲み歩いたり食べ歩いたりしていた(それは感情をあまり表に表さないDCの人たちも同じだったようで、どのレストランも連日満杯だった・・・)。何かがすっきりしないまま、色々なことが進んでいき、大聖堂のミサにも行ったりしてみたが、結局何もすっきりせずに時間が過ぎていき3年がたつ。そしてまた今年も快晴だった。あの日のことについて、何を言っていいのかよくわからないけれど、雲ひとつない空に半旗が翻っているのを見ると、ペンタゴンに何ヶ月も残っていたジェット燃料のにおいや、戦闘機の爆音や、会議場で持ち場に戻れといったおじちゃんの冷静な声が感覚的によみがえってくる。