愉快的陳家@倫敦

ロンドンで、ちょっと雑だが愉快な暮らし。

ピラネージ・中華街・ハルキさん

2月の読書記録。

2月は長いフライトに乗る機会があったり、仕事の忙しさが少し緩んだりしたので、多少本を読む時間が取れた。

Piranesiは、迷宮のような、広大で当てのない、一部廃墟になり波が押し寄せ、鳥が住み着き、各部屋に彫刻がある不思議な建物に住むピラネージと呼ばれる男の人の話。しばらく彼の日記が続くのだが、この人が一体誰なのか、時代はいつなのか、全くのファンタジーの世界の話なのだがわからないまま日記が続く。

彼の他に、そこにはOtherと呼ばれる人も住んでいるようなのだが、どうも彼は現実の世界とつながりがあるらしい。そんな中、第三の人物が現れて、なぜピラネージがここにいるのか、このOtherは誰なのか、色々な真実が明らかになっていく。

途中から謎が明らかになり始める段になってようやくぐいぐい引き込まれて一気に読んだ。ちょうど家族に不幸があり、アメリカで納骨堂的な所に初めて足を踏み入れる機会があったのだが、そこも迷宮のようにいくつもの広大な部屋がたくさんつながっているような場所で、このピラネージが住む世界(もっと廃墟っぽいけど)を連想させて不思議な気持ちになった。

ニュースやノンフィクション、仕事の文章などはどうしても情報を取りに行くために読んでしまうが、久しぶりにこういう本を読んで、ゆっくり文章やその世界を味わう楽しみを久しぶりに堪能した。

Interior Chinatownは小説なのだが、テレビドラマの脚本のような形で書かれている。チャイナタウンに住むウィルスはテレビドラマに出演する俳優のようなのだが、アメリカあるあるで、もらえる役はほぼセリフのない一般的なアジア人男性だったり、訛りのある英語を話す、ステレオタイプの役ばかりがまわってくる。

彼の両親も俳優だったようで、劇中劇では中華街の風呂などは共同の、混み合ったアパートに住み、中華料理店で働いているのだが、彼らのモノローグを読んでいると、これは本当に劇中劇なのか、アジア人として求められている「役柄」を、家族みんなが演じている話なのか、その境界線がだんだんなんだかよくわからなくなってくる。

日本で生まれて日本人として日本で育った自分にとっては、自分の物語ではないはずなのに、アメリカに移民して中華料理店を営んでいた陳家の一員になったせいか、やはり自分も外国に住むアジア人だからか、移民としてのアイデンティティステレオタイプ、他の人種との相対的な関係から自分の立ち位置が変わることなど、痛いほどよくわかる。と同時に、移民小説としてはもうこのテーマはあるあるすぎて変わり映えはしないよな、とも思ったりするなど。

しかしこの小説はそんなテーマをドラマの脚本として、時に非現実的なセリフやシチュエーションも交えて表現しているところが、フォーマットやフレーミングの妙なのかもしれない。

ちょっと舞台や劇中劇チックな設定が多いウェス・アンダーソン風の映画を、ファンタジー少な目にしてアジア人キャストでやるとこんな感じになるかな・・とこの脚本が実際に映像になったところを想像したりした。

どうやらHuluでドラマ化が進んでいるらしい。ってテレビシリーズにするほどの長さやクライマックスがある気もしないのだが、どうなるのかな。

春樹さんの薄いエッセイはこれくらい短い文章の方が今はイラッとしなくて読めるなと思った。中国語でも目にすることがある「小確幸」は彼の造語だが、引き出しあけると下着が揃っているのが気持ちが良いと言うのがここで挙げられていた小確幸の例だったのに気がついて少し笑ってしまった。

1月読書記録

今年は英語でも日本語でもいいから、1か月に本を最低2冊は読みたいなと思っているので、いつまで続くかわからないけれど、その記録。

1月はあまりに忙しすぎて本を手に取る暇というか余裕がなかったが、家にある古い本を再々*n 読した。

村上春樹のエッセイは、80年代村上さんが30代の時のものなので、今読むとやはり青臭く、そして80年代臭い部分が以前にもまして目についた。村上さんのエッセイは好きだったはずなのに、なんとなくイラっとしたのは、どちらかというと読み手である自分の年齢や時代の変化によるものであろう。

そういえば、村上さんに聞いてみよう、みたいな感じで読者が色んな質問をしたり、アドバイスを村上さんに求めるシリーズが以前あった。当時はふむふむなるほどなどと読んでいたが、本人が「なぜ僕に聞くんだろう」と言っていたように、このエッセイを読んだ後、ふとなぜ村上さんに正解を求めようとしてしていたのか自分でもよくわからなくなった。多分彼の周りに流されない、ある意味清廉潔白にも思える暮らしぶりのせいかもしれないけれど。

でも考えたら村上さんはうちの両親とほぼ同い年である。つまりはどうあがいてもそういう時代の人なのである。うちの親も30代の頃、こういう感じの世の中や感覚があるなかで生きていたんだな、と思うと、今の自分より若いころの先人たち(ってまだ生きてるけど!!)を想像してちょっとむずむずしてしまった。

米原さんのエッセイも毎回食べ物のエピソードなど読んでいて楽しいのだが、今回は読んでいてリサーチの方法や、最近の若者はコンビニ食ばかりでという、なんとなくお約束どおりの現状批判がちりばめられているのが今回は気になり、これまた書かれた時代の限界みたいなのを感じるなあ・・と、いつもと違う感想を覚えたのだった。

【本棚総ざらい6】嘘つきアーニャの真っ赤な真実

もうこの本を読むのは何周目だろう。米原真里さんの作品に惹かれるのは、やはり1960年代、プラハソビエト学校で学ぶという、当時の日本人にはなかなかできないユニークな経験をしたこと、そしてアメリカやイギリスや中国よりも、わかるようでわからないソ連、そしてロシアという世界のことを垣間見せてくれたからだと思う。

このノンフィクションは、そんな米原さんが通ったプラハソビエト学校時代の友人達がその後どうなったのか、ソビエト崩壊でわちゃわちゃしていた頃に、彼女がプラハに飛び、足跡を追い、再会するという話。

プラハから日本に帰国して30年、どこでどうしているかわからないギリシャユーゴスラビアルーマニア出身の友達3人の消息を、あちこち歩き回って探し、どんどん核心に近づいていく様子はやはり読んでいてわくわくする。プラハの春ソビエトの崩壊、それに伴う彼らの祖国の情勢といった、私達にとっては歴史やニュース上での出来事が、彼女たちの人生には直接影響を及ぼしているのも、のんきに日本で育った身としては、初めて読んだ時はかなり衝撃だった。

読書の良いところは、同じ本を読んでも自分の年齢や状況によって、やはり見えてくるところや心に残る部分が変わるということだと思うが、欧州に引っ越してきてから読み直したことで、やはり日本やアメリカで読んだ時とはまた違う感覚を覚えたりもした。やはりアメリカにいるときよりも、世界情勢に直接影響を受けて暮らしている友人や知り合いが増えたのもあると思う。この登場人物の一人も、再会した当時はロンドンに住んでいたな。今もきっとどこかで健在なんだろうか。

子供の時は、ただただ一緒に時間を過ごした友達の、細かい家族や国の事情、あの時なぜあんなことをしたのか、言ったのか・・それぞれが抱えるものや真実は、時間がたって大人にならないと理解できないものもある。この話は、再会を通じて良くも悪くも答え合わせができた話とでもいえるのかな。世界情勢がこんなになっている今、この本を翻訳して出版しても、全く古い時代の話ではなく他の国の人も読めるんじゃないかなとふと思ったりも。

この本は、NHKのドキュメンタリーで彼女がプラハで友人探しをした時の話がもとになっている。ドキュメンタリーはネットで探すとYouTubeにあがっているが、かなり短めなので、その分この本でもっと色々なことがカバーされている感じである。再会した友人達がカメラの前では話したくなかったこともここには色々と説明されている。

そして同時に、本人たちの中にある価値観やものの見方の矛盾について、米原さんがそれは違うでしょう・・!と強い思いを持ったりする部分もある。ドキュメンタリーの中では、お互いに淡々と話しているように見えるし、反論も強い反論には聞こえなかったりする部分が、本では結構強い感情や意見として書かれている。内心と実際の感情表現が、表に思うほど出ていない部分をドキュメンタリーで見たのも、なんとなく興味深かった。これは米原さんが日本的だったのか、人間やはり表に出る感情は実際の数割っていうところなのかどうか。

【本棚総ざらい5】やがて哀しき

久しぶりに村上春樹のエッセイを読んだ、村上春樹の小説は読むと腹が立つばかりで全く共感できないのだが、エッセイはなぜか好きで学生の頃からよく読んでいた。当時アメリカの東海岸の大学に行っていたので、特に村上さんがプリンストンやボストンにいたときの話などは興味深く読んでいた。カリフォルニアに引っ越した後は、彼がバークレーに来た時の講演にも行ったな。それもずいぶん遠い昔の話である。

久しぶりにプリンストン時代のエッセイを読んだが、ちょうど湾岸戦争がはじまり、ジャパン・バッシングも真っ只中だったころのアメリカの話である。ジャパン・バッシングどころかジャパン・パッシングなどと言われて久しいが、本当に社会や経済や色々なダイナミクスなんて、数十年のうちであっという間に変わってしまうものなんだよな、となんとも言えない気持ちになりつつ、2020年代になって読むとアメリカも意外と昔からそうだったんだな、という価値観や、こういうことがあって今こうなってるんだな、となんとなく答え合わせ的に読めた部分もあり面白かった。

村上春樹のエッセイは、走ることについてのものや小沢さんとの音楽対談などは英訳されているけれど、今これを英語にして読ませても面白いんじゃないかなと思った。アメリカ人は自分が観察対象になっている文章をあまり読む機会もないような気がするし、ひと昔前の話、しかもみんなが大好き村上春樹が書いたものだと思って読むと結構落ち着いて面白く読めるんじゃないかなんて思ったりもして。

一方で女性に関する話などは、今これをこのまま訳したら叩かれそうだなぁ、という表現をハルキさんがぽろっと使っているのも、おっとっとぉ・・という感じであったが、いかんせん春樹さんは自分のことを「男の子」などとは言っているが考えたらうちの親世代なのであった、今ではもうさすがに言っていないだろうか、男の子。

marichan.hatenablog.com

【本棚総ざらい 4】コンスタンチノープルの陥落

家の本棚にある本を読みなおすシリーズ。もう10年(以上?)手に取っていなかった塩野七生の本。東ローマ、ビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルが、トルコの若きスルタンメフメト2世による包囲戦で陥落していくプロセスを書いた話。

当時のヨーロッパの組み入った勢力関係については、やはり欧州に引っ越してきて、実際に旅行でその場に行って雰囲気を感じ取ったり、地理的な感覚がより身近にわかるようになったことで、リアル感が以前読んだときよりもずいぶんと変わった気がする。

ここでもベネチアギリシャセルビアに至るまでヨーロッパといっても当時色々な背景と思惑があり、東西キリスト教の対立やら教科書でも習ったことが書かれているが、それが肌感覚で以前よりもわかるようになったと思う(当社比)。特にこの間クロアチアに行ったばかりなので、バルカン地方が当時からどれだけごたごたしていたのか、改めて認識したように思う。

一方であまりにも色々な要素が絡まってくるので、なんとなく全体の流れや関係性をざっと把握するには面白い本だとは思ったが、その分登場人物が多すぎるのか、どの人物もささっと表面をなぞっているうちに終わってしまった感じもあり、その点は小説としてはちょっと残念な感じもあった。小説ではあるが、歴史入門書として読むといいのかな。

実はこの本、自分の記憶の中では、欧州のどこかから来た商人と神学生が、トルコ軍に包囲されたコンスタンチノープルの城壁内で、立てこもり救助を待ちながら、首都が陥落していく様を見、その経験を語り合う・・的な、どちらかというとキリスト教徒からの観点の回想録みたいな小説だったと思っていたのだが、再度読んでみたら全然そんな話じゃなかった。どこで記憶違いが起きたのだろう?別の小説とごっちゃになっているのかな?

いずれにしよ、大国の栄華については、今の世界情勢を見ていても思うけれども意外と長続きしないもんだし、続いたとしてもいずれは滅びる日が来るんだよなあ、とつくづく思う。国の興亡に焦点を当てて色々な例を見てみたい気もしてきた。

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ちなみに思い出したのは、英語では複雑怪奇で分かりにくいこと(特に制度とか)を「ビザンチン」と表現することがあります(急な豆知識)。以前文脈で読んだときには古臭いという意味かなと思っていたけれど、実際にはもっと色々そこに思惑が絡んでいたりとか、日本語の辞書では「権謀術数」なんて説明もされていました。